レストラン付近
レストラン付近

 

アンカラ遠望
レストランからの遠望
(真ん中の丘の上が、アタテュルク廟。

左手がアンカラ古戦場跡)

 

 

 

ヒッタイトの石像
ヒッタイトの石像
(博物館前庭にて)

 

 

 

 

アタテュルク廟
アタテュルク廟

 

◎アンカラ市内にて

 こうして車はいくつもの丘を越え、半日ひたすら走ったわけだが、幾つ目かの丘を越えると家がだんだん建て込んできた。道も車線が多くなってくる。漸くアンカラらしい。アンカラはトルコの首都だ。この町は、その昔草原の英雄ティムールが、当時飛ぶ鳥を落とすが如くの勢いだったオスマン帝国のバヤジット一世を、ここでこてんぱんに破り、しかも捕虜にして連れ去ってしまったという、有名な「アンカラの戦い」の戦場である。オスマン帝国にとっていわく付きの町だ。おかげでこの国は一旦滅亡状態になってしまった。「世の中には上には上がいるもんだ。」 とその昔、この話を読んだときの私の感想。

 アンカラ郊外は、それなりに都市計画されたたたずまいを見せるものの、旧市街に入ると、「道は一方通行」 「交差点は十字路じゃない」 全くアジアの混沌そのままと形容するしかない状態だった。そこを車はすり抜け、高台のレストランに着く。ここはアンカラでも古いたたずまいを見せる一帯で、このレストランも1910年代終わりの開店という結構由緒ある店だ。店は民家を改造したような作りで、木造である。階段を上るとギシギシと鳴り、上の階のバタバタという音も聞こえてくる。食事をしたところは三階の窓際だったが、高台にあるおかげで、アンカラ市外が一望できた。「例の戦場はどの辺りだろう。」 と一人でこの辺かな? と当たりをつけていたが、帰国後きちんと調べたら、あのレストランからは死角に当たる所らしい。ちょっと残念。

 食事自体は、いつものトルコ料理だが、今回出されたメニューのトルコ風餃子、奥さんがいたくお気に入りであった。日本に帰ってからトルコ料理の本を買ったので(京都で見つからなくて、東京に行った際に漸く発見した。餃子の作り方も載っていて、至極満足そうである。)、いつか作ってくれることを期待しよう。

 アンカラでも観光をした。この辺りから旅行の個人的な二つ目の目的がある。初めに行ったのはアナトリア考古学博物館。メソポタミア史では、アナトリアは重要なファクターの一つである。ヒッタイト・アッシリア等に代表されるように、文明の残照がそこかしこに残っている。その極一部をここでは展示してある。

 初めに旧石器時代の洞窟画を見た。洞窟から剥離法でひっぺがしたものだが、こう明るいところで見せて、色落ちせんのかいなあ? と思ったのは、素人だからか? 他にも新石器時代の諸文化の諸々を見る。普段中国ものばっかり見ている私にとっては、非常に新鮮だ。様々な装飾のモチーフとして牛を神聖視しているのがよく解る。ここで有名なのは、ヒッタイトのコレクションだ。ヒッタイトはアナトリアから北シリアまで領有した国家で、エジプトとの和平交渉文書が、エジプトとヒッタイト双方で見つかったこと(現物はイスタンブールにある。今回は見損なった。 (涙) )や、ラムセス二世と戦ったことでも有名だ。細かくてちまちましているくさび形文字や、曲線美が見事な雄牛のオブジェを見て、「う〜ん、中国とは違うねえ。」 と感心することしきり。

 で、なにげに転がっているミダス王の頭蓋骨(ロバの耳の王様だ)を見てから、浮き彫りの部屋に入る。オルハンが「ここから自由行動。20分経ったら集合ね。」。 彼、何回も来ている(カッパドキアにはシーズン中、ほぼ毎週来ているらしい。)らしく、飽き飽きしてやる気のないのが見え見え。まあ、こっちは説明を聞くより、自分で勝手に歩き回らせて欲しい口なので、もってこいだが。

 自由行動だ。浮き彫りの部屋に行く。これが見たかったのだ。時代毎のグリフォンの変遷や、戦車の浮き彫りを見て中国のそれと比べたりする。一杯資料写真を撮ったはずだったのだが、露光の関係で、シャッタースピードが遅く、出来上がった写真はぶれまくりだった・・・ 非常に悲しい。まあ、日本の博物館の写真を撮らせてくれない体制に比べたら、はるかにましであるが。一応フォローしておくと、日本のものは紙や木などの痛みやすい物が展示物の中心だという制約もある。それと過去の異教の遺物は大事にされにくいという、お国柄の違いもあるだろう。まあ、日本で写真を自分で撮るより、図録の方が綺麗なので別に構わないけど。

 博物館を出る。オルハンが焦っている。そう、飛行機の時間まで間がないのだ。アンカラの空港まで小一時間。そして空港での時間を考えると、タイムリミットに何とか間に合うかどうかみたいだ。車にとっとと乗り込む。しかし空港には行かない。まだ観光しなければならない所があるのだ。それは「ケマル・アタテュルク廟」。 

 御存知かどうかわからないが、近代トルコの開幕を告げる英雄が、彼ケマル・アタテュルクだ。一次大戦で同盟国について、こてんぱんに負けたオスマン帝国。連合国側と屈辱的な和平条約を結び、それにもとづいて列強がトルコに侵略をする。これではいかん! と立ち上がったのが、軍人のケマル・パシャ。連合国を巧みな離間策で引き離し、ギリシアをエーゲ海に追い落とし、アナトリアを回復。ローザンヌ条約を結び、オスマン家を追いだし、600年の帝国を滅亡させた男。政教分離、トルコ帽の廃止、ローマ字の採用、チャドルの禁止等々、やったことは多い。全く偉大な男だ。彼のおかげでお札がみんな同じ顔である。気持ちは分かるが、もう少し彼の活躍する歴史絵巻とか、工夫はできんかったのだろうか?

 それはまあいい。これが彼の廟だ。駐車場で風邪に伏せる同行者を、その奥さんが「大きな荷物」 と置いていったのは余談として、確かに病人を置いていったのは正解だった。何せ暑い。大理石かなんか知らないが、一面白い石。過日のイズミールやパムッカレとはいかないまでも、まあ病人は悪化するから寝て置いた方がよい。軍人さんが警備に当たっていたが、暑くないのか。根性なのか? 日本が徴兵制でなくて良かったと思う、今日この頃である。オルハンは、齢26になりながら、未だに兵役についていない。こんなのになったら、体力保つんだろうか? 私だったら絶対無理である。

 アタテュルク廟はでかい、規模もさりながら、天井が高い。全自動カメラのピントが合わなかったくらいだ。多分赤外線が拡散してしまったんだろう。中身はトルコ各地から集めた建築素材・意匠等々。要するにトルコ全土が彼の墓に凝縮しているのである。正に近代トルコそのものである。回廊には彼の使った遺物や、各国から送られた記念品などがあった。蒋介石の若き日の写真が目に付いた。個人的にはケマル・アタテュルクは好きな人物である。念のため。

 さあ、空港へGO!。何とか間に合う。これまでひたすら無口に運転をしてくれた、運転手のゲゼル氏ともこれでお別れだ。有り難う。荷物を預ける段になって、はたと気づく。「しまった。ナイフを手持ちの鞄に入れっぱなしだ!」 これでは確実にハイジャック犯扱いである。昔某空港国内線で、ポケットナイフを入れていたのをすっかり忘れていたが、別に気づかれなかった。いいのか、これで? まあ国内線近距離の燃料でいけるところなど、たかがしれているけど。ともあれアンカラの空港である。同行者が写真を撮っている。「たしかトルコでは、空港が軍用施設だから写真だめじゃなかったけ?」 と思ったが、何事もばれなければいいらしい。奥さんは例の絨毯をしっかりと離さない。同行者は、絨毯を荷物室に預けたようだ。人それぞれである。アンカラから飛行機に乗る。国内線なので、飛行機は小さめだ。滑走路で気温が40度。京都だったら死んでるな、これだと。標高約1000mの高原地帯、そして湿度の少なさがそれを救っている。飛行機が出る。次第にアナトリアの大地が小さくなる。さらばアジア、こんにちはヨーロッパ。パーサーが、お茶を配っている。手際が良くないので、配るそばから回収を始める。回収が終わったとたん、マルマラ海が見える。全くせわしない。

 飛行機は無事イスタンブールに着いた。


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