中国史コラム1997 7-8月分


1997 7-8月分

『史記』伍子胥列伝敦煌文書の偽物(付:補遺)/春秋時代の人口は?戦車戦について
中国近代史の各種紀年中央公論社『世界の歴史』その2ウマ駆ける古代アジア
「淅川下寺春秋楚墓考」Lloyd E.Eastman『中国の社会』礪波護『馮道 乱世の宰相』(付:補遺)/
若林正丈『蒋経国と李登輝』言葉で見る中国史

中国史コラム目次


1997/08/29

◎言葉で見る中国史

 今『漢民族と中国史』(民族の世界史5)という少し古い本を読んでいます。まだ途中までしか読んでいませんが、こういう歴史の語り方も有るのだなあ、と感心させられました。
 歴史事実の捉え方に関しては、ちょっと引っかかったのですが、それさえクリアすれば納得させられてしまいました。特に言語と気候の面から、漢民族の変遷を論じた項目に唸らされました。

 氷河期の休止した後、地球は今よりも暖かく、梅雨前線は黄河の辺りまで遡っていたそうです。そう言えば青銅器に象をかたどった物があります。『春秋左氏伝』には楚の王様が象を飼っていた記述もあります。
 それはさておき、地球が冷えるにつれ、北方から民族移動が南に向かって起こるわけです。で、それまでいたタイ系等南方系の民族は次第に中原地帯から南に移り、アルタイ系の民族が南下します。それは秦の統一・後漢末の混乱・モンゴルの全中国制圧を画期とするそうです(この時代区分は我々が通常使うものと重なり合ったり異なったりするところが、興味深いですね。)。
 私たちが漢民族と普通言う場合、中国人とほぼイコールだと思いますが、実は同じ中原に住んでいても、周の漢民族と明のぞれとは人種が違い、明のそれはかなり北方との混血が進んだ人種だろうと言う事らしいです。

 ※これの決定的要因となったのは、後漢末からの混乱による中原人口の大幅減少(後漢後期の四六〇〇万→三国期の八〇〇万と、大体2割程度まで減ってしまいます)と、北方民族の移住だそうです。

 その為、用いる言語も違ってきます。例えば、「飲む」という行為を表す言葉は、「飲」→「喫」→「喝」に変わります。「目」「犬」「猿」を表す言葉は、現代の普通話で書くと「眼」「狗」「猴」になります。
 また語順に関しても、「王某」という表現から「某王」という修飾語の逆転現象が起き、これは中国語が南方系から北方系に変わった軌跡を表しているのではないかと書かれています。

 「中国4000年」と一口に言い、悠久の歴史が流れている中国ですが、実は結構ダイナミックに変化しているんだなあと感じさせられました。 

題名 漢民族と中国社会
著者 橋本 萬太郎 編
ISBN 4-634-44050-4
発行年 1983年
発行所 山川出版社(民族の世界史5)

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1997/08/21

◎若林正丈『蒋経国と李登輝』

 これも帰省前に読んだ本です。

 台湾というのは実に不思議な政治実体です。正式国号は「中華民国」。でも中華人民共和国は「自国の一部」という。インドのダラムサラに居るダライ=ラマの様に、亡命政権でもなく、中国の一部(台湾・福建の一部)を領土とし、経済的には世界のトップレベルを占めている・・・ 実際、コンピュータの世界ではもはや台湾製品は欠かせない存在となっています。私の使っている自作機のマザーボードも台湾製です。台湾が一朝有事に巻き込まれたら、世界のコンピュータ産業は、一時にせよ混乱するかも知れませんね。

 閑話休題。私が台湾の政治体制について最初に耳にしたのは、蒋経国が死んだ時でした。その際初めて、台湾には中華民国があって、蒋介石の息子が政治的トップに立っていたことを知ったのです(ちなみに大陸側について知ったのは、華国邦が活躍している頃でした。四人組の裁判風景は今でもテレビで見た事を記憶しています。)。それ以来、新聞・テレビなどで李登輝が徐々に政治体制を変化していった過程をリアルタイムに見てきました。映画の「非情城市」(これのサントラを担当したセンスのファンだったので見た)で、二・二八事件を初めて知りました。
 そんなこんなと台湾について朧気に学んでいたのですが、最近台湾・大陸の経済的実力が増すにつれて、再びマスコミの耳目を賑わすようになった、中台関係、特に台湾の戦後史について何か良いのがないかなあ、と気が向くままに探していました。
 そこで見つけたのが、「現代アジアの肖像」シリーズに含まれる本書です。中身は蒋経国・李登輝の伝記と政治状況を簡潔に纏めています。文章は読みやすいのですが、作者が強調しているように、やたらと官職名が羅列してあるのには、少々くどささえ覚えます。最も、そのくどさに当時の状況が伺えるのですが・・・。蒋経国の方は比較的淡々と書いてあるのに比し、同時代のせいか、李登輝の方はよりダイナミックに書いてあります。私の受け取り方の違いかな?

 これと同シリーズ1巻の『孫文と袁世凱』を読むと、同じ国民党でも、名前だけ一緒で完全に異なる政治集団だなあと実感させられます。

 ※これと、司馬遼太郎『台湾紀行』街道を行く 朝日新聞社 一九九四 を一緒に読むと、より理解が深まります。文庫も出ましたので、こちらも是非読みましょう。

題名 蒋経国と李登輝 「大陸国家」からの離陸?
著者 若林 正丈
ISBN 4-00-004400-1
発行年 1997年
発行所 岩波書店(現代アジアの肖像5)

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1997/08/20

◎礪波護『馮道 乱世の宰相』

 話が前後しますが、帰省前に読んだ本の紹介です。
 この本の主人公たる馮道は、俗に「五朝八姓十一君」に仕えた、変節漢の代表的存在とされる人物です。五代の後唐を皮切りに後周の柴榮まで、途中致仕する期間は有れども、ほぼ一環として宰相として国の中枢に位置し、乱世を乗り切った人物を伝記的読み物に仕立てて、当時の時代背景と共に描き出しています。
 この本を読む限りでは、馮道はその長者的性質の故に乱世を乗り切ったように見受けられます。ただ目端の利くだけではなく「大人」の資質も持ち合わせていた故に、権力側もおろそかには出来なかったのでしょうね。

 しかし、同時代に「寛厚の長者」として尊敬された彼も、「臣は君を違える能わず」とされた宋代官界での評判は非常に悪く、司馬光『資治通鑑』・欧陽脩『新五代史』辺りの評価が決定的となり、廉恥無き者として貶められたようです。

 この本の記述は、簡にして要を極め、出版の当初から名著の誉れ高く、中公文庫にもなったのですが、惜しむらくは絶版のようです。私は大学の図書館で見かけて借りてきました。皆さんも見かけたら是非読んでみてください。いい本ですから、是非再販して欲しいですね!

補遺:絶版と書きましたが、三刷が数年前に出たようで、現在でも入手可能です。現に09/06(土)に京都の大型書店で見かけました。現在入手可能な書籍の検索は、社団法人日本書籍出版協会運営のBOOKSで可能です。ここは便利なので是非使いましょう。

題名 馮道 乱世の宰相
著者 礪波 護
ISBN 4-12-201502-2
値段 \563(税抜)
発行年 1988年
発行所 中央公論社(中公文庫 と71)

 

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1997/08/19

◎Lloyd E.Eastman『中国の社会』

 帰省していたので、更新がおざなりになっていました。10日ぶりのコラムです。

 今回は、帰省中に読んでいた本を紹介しましょう。

 著者はアメリカイリノイ大学の歴史系教授です。専攻は中国近代史だそうです。
 著者は、自分の専門たる近代史の研究のために、近代の政治経済の変化がいつ頃から起こったのだろうかという興味から研究を重ね、明清を中心とした「帝政時代後期〜民国」についての社会・経済的分野について、本書に纏めています。

 この時代に関する日本の研究の現状をよく知らないので、具体的な内容に関するコメントは差し控えますが、なかなかに肯かされる箇所が多かったです。

 内容よりも気になったのは、中国という対象への味方でしょうか。我々は、東夷とはいっても中国文化圏の影響下にあり、その叙述も、私も含めて、何とはなしに解った感じで書いている事が往々にしてあります。この本を読んでいて感じたのは、非常に記述がドライだという印象を持った事です。これは訳文という性格もあるのでしょうが、淡々とした記述の中に、読む物を非常に唸らせる内容が溢れてます。日本人が書く中国史の様な、思い入れといった部分がなく、かといって小難しく書いてあるわけでもないので、非常にドライな印象を受けるのです。

 これに関しては、人それぞれ受け取り方が違うとは思いますが、内容は非常にお奨めですので、一度読んでみてください。日本人とは違う欧米系研究者のアプローチ方法や、関心の方向性も勉強になりますよ。

題名 Family,Fields,and Ancestors (邦題『中国の社会』)
著者 Lloyd E.Eastman(訳者:上田信・深尾葉子)
ISBN 4-582-48207-4
値段 \4800(税抜)
発行年 1994年
発行所 平凡社

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1997/08/07

◎「淅川下寺春秋楚墓考」

 八月最初のコラムです。最近どうもネタが無くて・・・ 本は乱読気味に読んでいるのですが・・・

 今回は、ごく個人的な話です。プロフィールの頁にかねて書いたとおり、『史林』80-4に掲載予定であった、表題の論文が漸く掲載紙の発行に至り、世に出ました。それの要約を紹介します。詳しくは上記雑誌を見てください。大学図書館等にあります。

 1977年10月に、淅川下寺春秋楚墓は河南省南部の丹江ダムの畔で発見されました。
 本墓群は、春秋中期後半から晩期にかけて造営された楚大夫層の墓群です。その中でも最大規模の2号墓被葬者について、従来「王子午」「い※1子馮」の二説が提示され、意見の一致が見られませんでした。また、従来の楚史の研究において、この両者の時代を単独に取り扱う事は皆無だったのです。
 そこで本論では墓群の解明を試み、様々な検討の結果、2号墓の被葬者を「「い」子馮」と決定、墓群全体を下寺周辺支配層のものと結論づけました。
 続く2章では、その結果を踏まえ、「い」子馮の出身世族であるu氏について、彼の出身世族の歴史を整理し、「い」子馮が登場する背景について探ります。そして、旧世族連合政権である彼の政権について述べ、その中で彼が国内政治の建て直しの為、楚型世族より中原型世族への変換を指向し、一環として淅川下寺付近を自邑とすべく行動したと結論しました。結果として、「い」氏という、従来あまり研究されていなかった世族を楚史に位置づける事が出来たと自負しております。

※1:「い」 草冠に「爲」もしくは、「遠」の「袁」の部分に草冠が付く。以下同じ

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1997/07/28

◎ウマ駆ける古代アジア

 以前図書館で借りて読んだことがあるのですが、生協で売っていたので、良い機会だと思って購入しました。
 この本のテーマは「馬」です。それも馬を用いた軍事兵器が、戦車から騎馬戦術にかけて移り変わる時代を採り上げています。
 従来、この種の研究は、東・中央・西アジアそれぞれで、孤立的に研究されたものが中心だったのですが、著者はそれを全アジア的な視点から採り上げ(東アジア(中国)の部分が多いですが)、「馬」をキーワードとするアジア交流史的な内容を展開しています。
 文献資料のみならず、考古学の成果をも存分に採り上げ、図版も豊富に用いられて書かれていますので、一般書でありながら、その説得力は確かなものだと思います。

 中国古代史の研究には、「戦車」「騎馬」の視点は欠かせません! お奨めの本ですよ!

題名 『ウマ駆ける古代アジア』(講談社選書 メチエ11)
著者 川又正智
ISBN 4-06-258011-X
値段 \1500(税抜)
発行年 1994年

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1997/07/23

◎中央公論社『世界の歴史』その2

 以前、「宋と中央ユーラシア」の読中感想を書きましたが、今回はそれとは別の本『中華帝国の危機』についてです。
 本来、上記の本より先に出ていましたが、なんだかんだと最近まで読みそびれていました。
 中国の近代史を高校辺りで習う時には、「アヘン戦争」「戊戌政変」「義和団の乱」「辛亥革命」の順かと思います。まあこれらは確かに大きなキーワードに違いないのですが、これだけでは清末という時代は語り切れません。その意味では、このシリーズに珍しい政治史中心の記述は貴重だと思います。時々文体が鼻につく処もあるのですが、記述は概ねバランスが採れており、清末の概説書としてもお奨めできます。

 これを読んでいて感じたのは、ほぼ同時に読んでいた、岩波の現代アジアの肖像シリーズ『蒋介石と毛沢東』に記された、蒋介石と清末漢人大官僚との思考の類似性です。曾国藩・左宗棠に代表される清末の内乱を鎮圧した大官の思考は、常に「内部の治安が第一で、外部の排除は二の次」だったと言うことです。これは日中戦争中の蒋介石の「共産党殲滅が第一、日本は二の次」という思考と似ているなあと感じました。その意味では、蒋介石は清末大官の正統的後継者だったのかも知れません。

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1997/07/18

◎中国近代史の各種紀年

 最近北朝鮮で、金日成の生年を基準とする「主体」紀年が、発表されました。昔は元号を立てると言う事は、中国の朝貢関係からの独立を意味する物だったのですが、本家中国が使わなくなって久しい今日、日本以外に新元号を制定しようとする国が現れるとは思いもよりませんでした。中国古典にネタを求めないのが新しい点でしょうか???

 閑話休題、清が当に倒れようとする19世紀末〜20世紀初頭にかけて、革命派・洋務派それぞれに独自の紀年をつくりました。
以下に挙げるのが、その代表的な所です。

孔子生年紀年 (紀元元年 前478)
孔子卒年紀年 (紀元元年 前551)
明永暦紀年 (紀元元年 後1661)
共和紀年 (紀元元年 前841)
黄帝紀年 (紀元元年 前2491)
黄帝生年紀年 (紀元元年 前2711)
黄帝甲子紀年 (紀元元年 前2697)
黄帝開国即位紀年 (紀元元年 前2698)

 使用者は、康有為・章炳麟・宋教仁・劉師培が代表的で、その著作や関係する雑誌・新聞等に用いられています。

 日本の神武紀元・西洋の天地開闢紀年等も同様な例でしょうが、年号の数え方が重要なアイデンティティーを示していた、昔ならではの事ですね。私は、昭和〜平成に変わったおかげで、西暦との換算が面倒になり、普段はもっぱら西暦を使っています。

 しかし、紀元4000年代って結構来る物がありますね。

◎参考
竹内弘行「中華民国年号の成立に関する一考察」
『町田三郎教授退官記念 中国思想史論叢』下巻 同刊行会刊 1995.3.11

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1997/07/15

◎春秋時代の人口は?

 今、論文を書く必要上、春秋時代の人口について考えています。もちろん簡単に判るようなデータが無いので苦労しています。信頼できる統計資料として最も古いのは、『漢書』地理志所収の、西暦二年の人口(約56,000,000)です。
 今は、人口統計学の本と首っ引きになって、春秋時代の人口を投影(実際の予想とは違うが、大体こんなもんだろうという印象を与える程度を示す? 人口学の用語らしい・・・)しています。
 一応先秦の人口を推定している研究もあるので、それを基に平均的単純人口増加率を求めています。まあ、農業開発がそう急速に進むわけもないので、「人口爆発」が起こる可能性を有る程度排除可能だと推定すると、大体年平均0.25%程度の増加率がはじき出されます。これを当てはめると、大体こんな感じでしょうか?

 秦:約33,000,000 戦国:約25,000,000 春秋:約11,800,000

 『續漢書』郡国志 引 劉劭注『帝王世紀』に「11,847,000」というのが有るのですが、元ネタが定かではなく、信頼性には一歩劣ります。当時の軍事力から人口を弾き出す手もありますが、当時は国民皆兵制ではなく、そのような試算は徒労に終わる可能性が高いです。
 ※これをやった中国の論文を見ましたが、なんか七千万〜一億という人口を出していました。漢代で五千万なのに、それより食料生産力が劣る春秋時代の人口が多いと結論づけたのか、理解に苦しみます。実は、論者の人口試算の計算道程が明らかにおかしいからなのですが・・・

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1997/07/14

◎戦車戦について

 殷〜春秋時代の戦争の主力は戦車です。以前から疑問に思っていたのですが、図版では、戦車戦は「すれ違いざまに戈で首を刈り取る」と説明されていますが、果たしてこれが本当に可能だったのでしょうか?
 戦車は、二輪車ですが、車輪は木で出来ており、今のように空気タイヤでショックを吸収する事が出来ず、車体にもバネがないため直接振動が響き、乗車には熟練が必要だったようです。
 戦車には三人一組(御者・弓左・戎右)で乗り、遠くから弓をいかけつつ近づき、すれ違いざまに柄の長さ2〜3mの戈で首を掻ききるか(楊泓説)、引っかけて落とす(林巳奈夫説)かしたようです。

 しかし、安定性の悪い車上で、しかも人間の首という、固定されていても切り難い箇所を扱うのは難しいと思います。引っかけるにしても、戈が敵の体に刺さったら、そのまま持ってかれてしまうのではないでしょうか?
 戦車同士の相対速度と、戈を振り回す慣性モーメントを計算すれば、首くらい引きちぎれるのかもしれませんが、足下がしっかり固定されていない以上、至難の業だったと思います。だから、趙氏の様な乗車に長けた集団が存在したのかも知れません。

※今日、バイト先で『郭沫若全集』を貰った。ラッキー!

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1997/07/07

◎敦煌文書の偽物

 先週末の朝刊各紙によると、ロンドンの学会で京大名誉教授の藤枝先生が「大英博物館所蔵の敦煌文書に偽物が有る」旨の報告をしたそうです。それで各紙大騒ぎです。毎日なんか一面トップでしたね。
 古文書の偽物騒動というのはそう珍しい事でもありません。例えば青銅器に記された「金文」についても、清代には大量の偽物が出回り、中にはかなり精巧な物まで作られており、また甲骨にしても、発見当初から偽物が出回っていたそうです。

 この敦煌文書に関しては、従来の文章内容への興味から、紙・墨・字体の調査等に基づくテキストクリティークの手法が採られ始めた事を意味します。ただその所蔵が世界中に散らばっていた為、統一的な調査が出来なかったのは仕方のない事でしょうね。これによって信頼できるテキストが厳選されますので、敦煌文書研究の一層の発展が期待されます。

 付け加えれば、中国に限らず偽文書はどこの時代にもありました。中国で言えば、明清代になって漸く偽物だと看破された『偽古文尚書』や『今本竹書紀年』等は有名ですが、他にも戦国諸家の先賢が語ったとされる言葉にも、後代の仮託が多く、これも偽造の一種? だと言えるかもしれません。

※補遺:これに関しては、大英博物館のInternational Dunhuang Project (IDP) のホームページを参照すると良いでしょう。

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1997/07/06

◎『史記』伍子胥列伝

 有名な『史記』伍子胥列伝についての話です。
 この気合いの入った人生を送った人物の列伝は、何をネタにして出来たのか?
 大学の中国文学専攻の学生が、「伍子胥についてやりたい!」と言っていたネタを師匠と話していたら、師匠曰く「伍子胥列伝に彼を祀った祠の記述があるだろ、彼処に伝わっていた縁起的な伝承も列伝のネタになったかもしれんな。」と。

 確かに春秋時代の根本資料たる『春秋左氏伝』には、伍子胥の逸話余り載っていません。どちらかと言えば、彼が軍を率いてどーしたこーしたといった事実の羅列が主です。『春秋左氏伝』より遅れて成立した『国語』にも伍子胥関連の記述は少ないです。

 しかし列伝中の伍子胥は、実に生き生きしています。これは司馬遷の筆力もあるのでしょうが、それの元ネタが必要なのは言うまでもないでしょう。まあ師匠の推測の真義は判りかねますが、『史記』に載っている陳渉や魏公子(信陵君)等の、祠に祀られている人物の元ネタもそこらに有ったのでしょうか? この辺りには、実際に司馬遷がネタ探しに赴いていますからね。

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