中国史コラム1997 5-6月分


掲載順:/香港について(あちこち訂正)/春秋時代から戦国時代へ中央公論社『世界の歴史』最近読んでいる本
バイト先で清朝復辟の話孫文についての雑談孫文に関して(おまけ)
西安で発見された『孫子兵法八二篇』について孫呉の木簡を発見

中国史コラム目次


1997/06/30

香港について(あちこち訂正)

 香港がいよいよ返還されますね。マスコミは大賑わいです。
 処で、香港は南京条約で割譲されるのですが(今、台北の故宮博物院で、条約の原本展示が行われているそうです。)、何故、香港が選ばれたのでしょうか?
 私の後輩に、修士論文でこのテーマに取り組んだ人がいます。彼の研究によると、イギリスは遣清使節の当初から、清側に貿易の拠点として土地を求めていたようです。当初は杭州湾外の舟山島を念頭に調査を重ねており、アヘン戦争勝利の結果、舟山島割譲を第一に希望していたらしいのですが、その地域は、港として丁度良いものの、風土病(マラリアらしい)の流行等、イギリス兵の駐屯には不向きだったらしく、別に候補地を求め、たまたま拠点候補地の一つとして、以前から調査が進められていた香港島に切り替えたそうです。
 いわば、偶然? が現在の香港を現出したのですね。歴史にはこの類のちょっとした偶然がよく見られます。

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1997/06/26

春秋時代から戦国時代へ

 今日のネタは、師匠に論文を見てもらっていて、その後していた雑談からです。

 春秋時代の諸侯は、中原の晉が「覇者体制」と呼ばれる、周王を戴いて「周王→覇者→諸侯」というピラミッド関係を作り、それに他の諸侯が従属することによって成り立ってきました。しかし、齊・秦・楚の晉と敵対関係にある諸侯は、互いに友好関係を結び、晉覇の従属諸侯(鄭・宋・衞等)を晉覇から脱退させることで、晉の孤立を図っていました。

 その関係は、戦国時代にも続きます。晉が韓・魏・趙(三晉)に別れ、互いに潰しあいをするようになると、互いに齊・秦・楚と結ぶ事になります。三晉の中で一番早く国力が充実した魏は、その為に他の二国から警戒され、それらと結んだ齊にこてんぱんにやられます。

 また、秦が春秋時代中期以来、中原の政治史に顔を出すようになったのは、この三晉情勢が背景にあるのではないかという話でした。趙・魏のように南北に領土を拡張することが出来なかった韓は、秦の軍事力に頼ります。当時の秦君が周王に厚遇されるのも、領土ではなく、周王朝という「お宝? 」を抱え込むことで、権威付けを図った韓の思惑があるかもしれません。

 後、秦の恵文君は諸侯と盟約を結びますが、これをそのまま進めれば、周王朝のというシンボルのもと、覇者が諸侯を統合する、神聖ローマ帝国(教皇が周王 皇帝が秦王)的な体制が出来たのかもしれません。実際の歴史は始皇帝という怪物のために、統一帝国の方向に進みましたが・・・

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1997/06/24

中央公論社『世界の歴史』

 今日、表題シリーズの「宋と中央ユーラシア」が出ていたので、買ってきました。このシリーズは、内容が結構おもしろいのと、写真がオールカラーなので、資料も兼ねて毎号買っています。
 元々、このシリーズは東大の樺山先生(第一回配本「ルネサンスと地中海」)が言い出しっぺの規格で、東洋史側はそれに巻き込まれたそうなのですが(その為か、概して西洋側の方が、書き方を工夫しているような気がします。)、最新の歴史学の一端を知るには非常に便利な本なので、必要な箇所だけではなく、全部買うことにしました。

 今回出た「宋と中央ユーラシア」は五代〜南宋にかけての東アジアの歴史と中央ユーラシア、所謂「草原地帯」の概説を採り上げています。
 このシリーズ全体に「単なる概説書にしない」というのが感じられ、おそらくそのような編集方針でも在るのでしょうが、本巻も視点を変えて歴史を捉えています(尤も、このシリーズを書いている人たちの年代が、丁度制度史や経済史研究が流行っている時代に、学問の基礎を構築した事情も有ると思います。 )。

 ただ、中央ユーラシアに関する記述が、全般的に簡便(というか、これだけでは殆どわからんぞ! )に過ぎるのでは無いかと思います。中央ヨーロッパというのは、イスラム・ビザンチンと中国を結ぶ陸の大動脈です。一般には「シルクロード」のイメージが先行していますが、今のサマルカンドを中心としたアム川・シル川(何かの本で、「アムダリア川」「シルダリア川」と表記するのが有りました。「ダリア」というのはあちらの言葉で「川」を意味します。ですから、先の表記は蛇足だと言うことですね。尤も、京都では、バスでも「Kinkakuji Temple」等と案内していますので、あまり深く考えていないのでしょう。)の間は、長い間東西交易の一大センターでした。
 ※更に言えば、この本「中央ユーラシア」と題名をつける割には、殆ど敦煌周辺の河西回廊について触れており、中央ユーラシアの本分たる西トルキスタンには余り触れていません。このあたりもおもしろいのになあ・・・

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1997/06/15

 半月ぶりのコラムです・・・

◎最近読んでいる本

 最近、初期国家論の本(『国家の形成』植木武編 三一書房 1996)を読んでいます。人類学や考古学の分野の研究者が書いた論文集の形を採っています。この本自体は非常におもしろくて、私にとっては為になる本なのですが、少し気になる部分がありました。

 それは、その中の中国人が書いた部分で、そこでは、相変わらず? 「黄帝に代表される五帝が実在した」という説を披露しています。どうも私はこの類の伝説と歴史文献資料をごっちゃにした発言が大嫌いです。

 そもそも、ある遺跡群に属する墓から「謚が黄帝である」とはっきり書いてある物が出ない限り、その遺跡が「数字上」五帝の時代に属すとしても、そのものだと言うことは出来ないはずです。
 ※大体五帝の話に関しては、古史弁派と呼ばれる中国近代歴史研究法の人たちが「あれは各地の神様を擬人化した物に過ぎない! 」と喝破しているはずなのでは・・・

 中国考古学学会ではすっかり「夏」があった事になっているようですが、これに関しても明確な文字資料が無い現在では、おいそれと首是する訳にもいきません。

 先ほどの中国人研究者にしても、基本的なテキストクリティークが十分に行われていない(例:漢代に成立した『禮記』を堂々と五帝の時代の事を記している事例として引用)ために、私にとっては自分の都合のいい文献資料を適当に並べたように見え、説得力に欠ける物になっています。この辺りは、おそらく執筆者が人類学の徒なので、歴史研究の成果に触れる機会が少なかったのかもしれませんが、そのあたりまで踏まえた研究を行う必要があるのは言うまでもないでしょう。

  今回、たまたま中国古代史だったから目についただけですが、このような最近流行の「境界領域的研究方法」は確かに重要です。しかし、それぞれの分野の研究がしっかりと出来ていないと、両方の分野から袋叩きに合うのは目に見えています。これからは、専門分野だけを取り扱うよりも更なる精進が必要になると思います。

 自戒の念も込めた、読後の感想です。

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1997/05/26

◎バイト先で

 今日、バイト先で宮崎滔天関連文書を整理していたら、写真が出てきました。おそらく宮崎家所蔵の写真をコピーした物と思われます。

 その内容がすごい! 西太后がお付きを道連れに写っていたり、孫文・黄興等の辛亥革命の元勲のポートレート・孫文&宋慶齢・蒋介石&宋美齢の結婚写真等もありました。いやあ、みんな若い!(特に蒋介石 こういった写真だけを見ていても、宮崎滔天の回りにいた群像の多彩さに驚かされます。

 他にも20世紀初頭の上海の写真(たぶん、観光用の土産で売っていたやつ)が幾つか在りました。当たり前かもしれませんが、今の上海と大分雰囲気が違います。今の上海の所々に当時の建物が残っていますが、昨今の開発ブームで大分壊されてしまいました。案外貴重な写真かもしれません。

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1997/05/24

◎清朝復辟の話

 昨日、私の師匠に説教された(研究計画を見せに行ったところ、師匠に「おまえはワシの研究を解っておらん! それどころか全く誤解しておる! 」と言われてしまった・・・)ついでに聞いた話によると、辛亥革命で清朝が崩壊した後も、溥儀の復辟を巡って北洋軍閥の面々は、かなり真剣に検討していたようです。実際の腹壁は1917年の7月1日に、張勲による10日ばかりのものがありました。しかし、袁世凱や呉佩孚等も、溥儀の復辟について色々と考えていたようです。

 歴史上では、結局の所蒋介石による北伐がありましたので、そういう方向には話が進みませんでしたが、みんな裏で色々とやっていたという、歴史の一面を見せてくれるお話です。

◎孫文についての雑談

 これは、後輩と雑談をしていたときの話です。

 辛亥革命の勃発当時、孫文はどこにいたのかと言えば、アメリカだったというのは高校生くらいまでの世界史では、まず語られません。
 孫文というと、「國父」と讃えられ、革命の立役者だと考えられています。しかし辛亥革命を戦ったのは、孫文とは違う派閥の連中であり、勃発のきっかけも全くの偶然というか、自分たちの計画がばれたため、せっぱ詰まって起こしたものでした。

 この革命で孫文のやったことと言えば、後からやってきて「臨時大総統」という御輿に載せられて、やりたいこともやれないうちに、袁世凱にその地位を譲っただけにしか過ぎません。袁世凱による宋教仁暗殺の報を知ったのも、日本訪問中の事ですし、私の個人的感想では、重大局面に孫文は中国大陸に居ないことが多い! というものでした。

 孫文は確かに革命運動の初期から戦い続けていた古強者の人物ですが、結局の所、彼が自分の手持ちの軍隊を作り、やりたいように体裁が整ったのは、第三次広東軍政府成立まで待たなければなりませんでした。しかも、その後幾ばくも経たずして、孫文は死んでしまいます。

 では、なんで今孫文が顕彰されているのか! ということですが、これは当然政治がらみです。共産党・国民党共に孫文には借りがあります。共産党は、第一次国共合作が党勢を伸ばす一つのきっかけともなりましたし、成立当初の国民党は、「孫文に忠誠を誓う」党だったのです(今ではどうなのか知りません。以前、国民党幹部の会議では冒頭に孫文の遺言「革命未だ成功せず。同志須く努力すべし! 」 を唱和したそうです。)。この両者の確執には、孫文の跡目の正当性を巡る側面と思っています。孫文未亡人宋慶齢の身柄をどちらが確保するかの暗闘も、その一面だったのでしょうか? 

 確かに孫文は非常に追っかけてみると色々とおもしろいところがあります。めげないんですね! 彼は。負けても負けても、どうにかして何とかしようとする。そこがおもしろいと思います。宋教仁・黄興等の革命の元勲が、彼よりも早く世を去っており、ある意味では「生き残ったもん勝ち」といった所もあるのかなあ? と考えています。

◎孫文に関して(おまけ)

 3月まで『孫文研究』の「在日本孫文関係報道資料集成」のバイトをやっていたのですが、日本での孫文報道の変わる様にが、非常におもしろかったです。

 まず最初のうちは、新聞の片隅に「広東で海賊の暴動、あるいは革命党の仕業か?」等とする、小さな記事が載っていました。次第に孫文の個人名も出てくるようになりましたが、「海賊の巨頭」 みたいな扱いで、康有為や梁啓超の連中の一派と誤解されていた記事もあります。

 孫文関係の資料を見ていると、その間にも結構彼は日本などでもあちこち動いており、犬養毅や宮崎虎蔵等の大陸浪人とも接触したりしており、日本政府からも危険人物扱いされていたのですが、そのような報道はなく、明らかに報道管制がされていたようです。

 それが変わるのが、辛亥革命後なのですが、一気に「孫逸仙先生」等としたにもおかぬ扱いに変わるんですね。日本に来たときなど、新聞広告に「我が社の製品を使っておられる孫文先生の来日を祝す」という宣伝が出ていました。

 また、誤報で死んだことにされたり(当時の新聞は、情報の都合もあってか、平気で誤報を流し、尚かつ訂正もしません。)、部下の連中も暗殺された事になったり、妻の宋慶齢もどこかで誘拐されたことになったり、非常におもしろいです。

 興味のある方は、『孫文研究』の雑誌を見てください。

元ネタ 『孫文研究』(孫文研究会 尚、私は孫文研究会とはなんの関係もありません。会員でもありません。あしからず。)

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1997/05/22

 大学で、中国考古学関連の雑誌を読んでいたら以下のネタを見つけました。

◎西安で発偽孫子兵法見された『孫子兵法八二篇』について

 昨年、新聞で少し? 騒がれた『孫子兵法八二篇』ですが、どうやら真っ赤な偽物だそうです。
 ※文面に「四面楚歌」等、絶対に出てくるわけがない語句が書いてあるそうです。

 図版を見て貰えば判りますが、どう見ても漢代の隷書を忠実に写したものでは無いです。
 ※漢隷では無いですが、時代の近い魏隷である「曹眞殘碑」を見れば、字体の違いが解ると思います。

 さらに論文に依れば、紙も1960年以降の物だろうと推定しています。。

 また。字体も、元曲(元代の戯曲)にしか出てこない文字が使われており、更にどう見ても簡体字を書いたとしか思えない物もあります。

 →報告者に依れば、繁体字をよく知らない人間が偽造した可能性が高い! という事です。

 ※しかし偽造するにしても、もう少しやり方があると思うのは私だけでしょうか?
  「字体」「用語」「紙の質」等を偽造する物の時代に合わせるのは、基本中の基本の様な気がしますが・・・

◎孫呉の木簡を発見

 昨年の12/27に、湖南省長沙で孫呉時代の墓が発掘され、大量の木簡が見つかったそうです。
 その数、なんと10万本!

 詳細が全く解らないので、早く情報が欲しいです。

以上、元ネタ・図版共『文博』1997-2期(総77期) 陝西人民出版社 より 

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